~2016 July〜
島添美奈子から大切なあなたへ
2016年7月31日
月末は閑話休題なのだ!~2~
今日は、私が嫌いなものをつらつらと書いてみることにする。
この地球は宇宙全体からながめれば、
いわば虫が制覇した星だ。
その中でも昆虫の王は何と言ってもゴキブリである。
その強靭な生命力と卓越した運動能力、
到底私は彼らに敵うことはない。答えはいつもシンプルだ。
自分より強いものが私は怖いのである。虫の中でゴキブリ以上に私が特化して嫌いな種族が
蛾と蝶である。
あんなに薄っぺらい羽に命が宿っていることを想像するだけで、
背中に冷水を流された気分になる。
蛾に至っては、羽に目玉模様なんぞをつけやがって、
私を威嚇する。
それも6つも目玉が付いていることもある。
想像しただけで逃げ出さなければならないいても立っていられない感が
私の足元からザワザワ湧いて出てくる。そして人参とピーマンとセロリとパクチーと春菊と肉の美味しくない脂身と
アクが抜けてないほうれん草とヒスタミンが多いキャベツも嫌いだ。
何が嫌いって、味が嫌い。
見た目は、どうでもいい。
デッサンの材料でも全然平気だ。
あと、パパイヤも好きじゃないな。
かいわれ大根も嫌いだ。
イタリアンパセリとケーキの上なんかに乗ってる、
見かけをよくするだけに存在する緑色の物質も好きではない。
パセリも生でもりもりは食べない。
ミョウガも好きじゃない。
だんだん嫌いなものだらけになってきたけれど、
薬味とか、少量であればパクチー以外は、
それなりに食べる。料理でいうなら、
ラーメンが嫌いだ。
何が嫌いって、麺の潅水という物質が嫌い。
だから、豚骨とか醤油とかそういう話ではなく、
ラーメンの麺が嫌いです。
蕎麦は、嫌いなのではなく、アレルギーにて味がしないし死ぬので食べません。他、食べ物であるなら、まずければ何でも嫌い。
贅沢と言われるかもしれないけれど、
そのくらい働けば問題ないだろうと思っている。
どうせ私は美味しいものを食べるためにしか働かない。いいじゃん、それで。
眠くなってきた。 寝る。
2016年7月30日
月末は閑話休題なのだ!
えっちらおっちら正しいことを書いてるつもりだけれど、
私が書いてきたことが果たして真実かどうかは、わからない。
思うがままに書いてるだけだから。という始まりはどうでもいいとして、
私が読んできた本について書いてみようと思う。私がもっとも敬愛する作家様は、
ドストエフスキー様です。
理由1
「こう言うと賢そうに聞こえるから」
理由2
「人物描写とその背後に流れる空気感の一体性が素晴らしい。
カラマーゾフの兄弟の第4巻が果たしてどうなるのか、
私にとって一生の謎を残してくれた心憎い人であるから」
理由3
「どう想像しても、そこに出てくる食物は美味しそうに感じられない。
食をわざとないがしろに書いていることが容易に想像できるから」あとは、
サルトル様もう何十年も前に読んだのにその文章というよりも情景が私の中に刻み込まれている。
これだけ人の心の波を書き上げた人物を私は他に知らない。
サルトルさまの人生はとても幸福であったという記述が多く残されている。
本当に彼の生活は幸せだったのだろうか。
あれだけの緻密な表現をできる人間が、悩みのない人生を歩んだとは考え難い。
好きな作品は、「出口なし」私にもっとも影響を与え、おそらく一番読み返してきた本
韓非子「帝王学」
非情の書と呼ばれる韓非子の人生論になるが、
私の中では、人を愛するがゆえの言葉の並びに感じられる。
有らゆるくだりは、物の見方の多面性を謡い、私の心の目を大きく開かせてくれた。
今の韓非子に私は何を問いかけたいか、時々ふっと考える。埴谷雄高先生
先生としか呼びようのない、孤高の小説家。
私の時世が育った暁には、
私は彼の本を全てを読み尽くしたい。
私は未だに彼に追いつくことも、影を踏むことさえできていないのだ。
かすかに見える後ろ姿が見えなくなる前に、もう一歩、もう一歩と
重い脚を前に出すのみである。
代表作となる「死霊」このくらいは、読んでおいてもらいたい。
アルコール漬になろうが、廃人になろうが、
今もし彼が生きているとしたら、
私は彼の愛人になりたいと思う。他にたくさんの作家様たちの作品に触れ、
その時を生きた。
一般的な作家様の作品は、
みなさんお好きなように読まれればいいと思う。
ただ、時には何を書いてあるかさっぱりわからないと思われるのに、
名著と言われているものを読んでみることを私は進める。
読みづらいと思うが、
それは自分が知らない感覚であり、過ごしたことのない時間が詰まっているからなのだ。というわけで、私は眠る。
2016年7月25日
私たちは、長い経年を重ねるにつれ
その日常の流れに変化が起こることをあまり好ましくないことだと思う傾向があるようです。
それは、驚くべきことに自分自身から生まれた欲求に対してもその事象は起こります。
自分の中に生じた欲求という名のアクセルを踏み込んだ状態で、
逆のブレーキも同時に踏むという、
それこそ危険で、しかも非効率的な方法を日常的に行っているのです。
変化というものには、必ず見えないリスクを伴うという情報が
私たちの脳の中に刷り込まれているが故にそれは引き起こされます。
客観的に考えれば、笑えるような話にまでなるものですが、
この事象は、実に頻繁に私たちの脳の中で生み出され、
そして、その愚業は実行されているのです。
あなたの中にあるその感覚を一言で言うなら、
「迷い」
あるいは、
「難しい」
という言葉で表されます。2016年7月26日
サボタージュ
2016年7月27日
〜2〜一体、あなたは、何に迷い何が難しいと思うのでしょうか。
単純なことですが、
私は、この言葉の中に重要なファクターが含まれているのではないかと推察します。
あなたは、自分の脳の中やいろんな感覚意識(おそらく)を使って、
思い悩んでいます。
思い悩んでいること自体がさらなる悩みを引き起こし、
その構造は複雑になってくるのではないでしょうか。
思い悩み、考えれば考えるほど、その材料は増えていき、
悩みは肥大化を遂げ、それこそ難しいと思えるまでになります。
このことは、時間という概念を使用して考えても同じことが言えるのではないでしょうか。
考えている間にも時間は、止まっていることはありません。
あくまでも流動的な存在である時間は、あなたにさらなる別の事象を突きつけます。
そのこともあなたは、自分の思考の中に取り込み、
その問題と言えることを自らの選択で難解なものに仕立て上げているのです。
人は、変化を恐れ、そして変化することに何らかの理由付けをして新しい選択肢を避けることが多いものです。
今までの生き方を変えることは、2016年7月28日
〜3〜今まで引き起こしてきたこと以外の未知なるものを
呼び寄せると信じているからなのです。
しかも、人は厄介な存在で他の何らかの要因により
その変化を何かに責任を負わせるという行動に及びます。
それは、時にはどうしようもない状況であったり、
他の誰かの言動であったり、
理由はいかようにも生み出すことができるものです。
ただ、あなたの中に迷いが生じたという事実は、
一つの事実を指し示します。
それは、
「新しい選択肢を見出した自分の存在」
この存在があるからこそあなたには迷いが生じます。
新たな欲求がないのであれば、
迷い自身も存在しません。
そして、その新しい選択肢が生まれた事由は、2016年7月29日
〜4〜あなたに成長もしくは状況の変化があってのことです。
あなたの中の新たなる萌芽を大切にしていき、
その理由やどうしてそうなりたいのか、
まずは、遂行することを前提として青写真を作って欲しいと思います。
あなたにとって、大切なひらめきは一瞬のものです。
明日まで待っていてくれるものではありません。
言うなれば、目の前に止まった行き先知らずのバスのようなもの。
乗るか乗らないかは自由ですが、
乗ればその車窓から今まで見えなかった景色が確実に見えてきます。
そして、バスを見送ったあなたは永遠にその後ろ姿を眺めながら、
その行き先に思いを馳せるのみ。
バスに乗ることは怖いことではないのです。
そのバスは、終点まで乗ってしまえば、また折り返してあなたを元の場所に戻してくれます。
違うのは、全く知らなかった世界を味わうのか、想像するのか。
それだけです。
このひらめきは、煌めきと同じ。
一瞬で掴まなければならない。
ためらう時間はほんの2、3秒。
過去に生きることなく、新しいことを味わい尽くしてください。
それは、あなただけに用意された極上の至物なのですから。
溶ける前に、冷める前に。
2016年7月23日〜24日
学問は単に学んぶだけでは何にもならない〜前編〜
魔術は奇術ではない。
この言葉も私の芯にある言葉です。
昨日初対面の方に「島添さんって、芯があって良いですね」と言われましたが、
自覚は全くなし。
ただ、何かを成すためにはただ知るだけではなく、
世の中に排出することが不可欠なことです。
ただ、不思議なことを引き起こすことが魔術なのではありません。
それは、奇行であり、世の中に役立たなければ
何の意味もなさない、あなたのただの遊びでしかありません。
あなたが学ぶには、
当初、何らかの目的意識があったはずです。
人間は初期衝動であるリビドー無くしては、行動しない動物ですから。
そのリビドーは、いつしか姿を知識と理解という名の元に、
なりを潜めてしまうことが多いものです。
学んだ。
そこに対価を支払った。
そこで終わってしまう人間がとても多いのは、
いいことにしてもそうでないにしても事実。
ただ、私がここで挙げたいのはこの世の中に生きる以上、
何らかの貢献をしなければ生きる意味がないのです。
ミクロコズモの中で生きるだけでは、
所詮それは、あなたの中だけで
育ち、実り、そして朽ちる。
〜後編〜
その実りの甘き果実を他に与えること、
もしくは、その種子をこのマクロコズモに落とすことが大切なのではないかと思います。
もちろん、自己を探究し、
また、その満足のための学びも多く存在します。
他の事象を息づかせるために、
そのことは、あなたを支え、さらに高みを目指す上で重要なファクターになるでしょう。
ただ、生きる以上、
あなたの存在は、必ずその経年と経験によってマクロコズモに影響を与えることを忘れないでほしい。
あなたの一挙手一投足は、このマクロコズモに少なからず影響を与えることをしっかりと認識してほしい。
あなたのマクロコズモは、あなたのものだけであり、
他の誰も共有していないことを知ってください。
あなたが見ている世界は、
あなた以外の人間は見ることができない世界なのです。
あなたが世界の構築者であるのなら、
あなたの置かれている状況もあなたが選び、
一番望んだ状態。
その状態をどうしていきたいのか、
あなたのリビドーは一体何を指し示したのか。
もう一度振り返り、
そして行動に結びつけてほしいと願いやみません。
2016年7月22日
人生は一度きりだから ころんでも 立ち上がり 前向きに生きていく〜最終章〜マクロコズモ自身もより良い存在になることを目的としており
善的な思想を持ち合わせているからこそ、それはいたって当然のことなのです。
私たちの行動は、常にミクロコズモの範疇を超えませんが、
その行動自体は、マクロコズモに大いに影響を与え、
さらにミクロコズモを助ける動きを見せます。
あなたが思い込んでいる人生の失敗も、
今、あなたがここに生きている以上、
マクロコズモに認められた存続価値のあるミクロコズモなのです。
私たちの前は常に開かれています。
常に、私たちは祝福されている存在です。
恐れずにあなたの意志で
その一歩を踏み出してごらんなさい。
マクロコズモは、あなたを決して見放すことはないのですから。
そして、私もそのマクロコズモの意志に従うことを誓った存在です。
あなたを一生見放すことはありません。
2016年7月21日
人生は一度きりだから ころんでも 立ち上がり 前向きに生きていく〜3〜平衡感覚を保ったままのマクロコズモが存続するのみになります。
ただ、マクロコズモは自己意識の元に生きているのですが、
マクロコズモそのものは、ミクロコズモの集合体であるということも忘れてはならないことです。
私たち人間という存在が約6億個? の細胞から成り立っているのと同様に、
マクロコズモは、ほぼ同様の数の人間で成り立っています。
マクロコズモはミクロコズモに多大なる影響を与えますが、
ミクロコズモの存在なくしては存在することができないのです。
私たちミクロコズモがマクロコズモに絶望し、ネクロトーシスすれば、
マクロコズモは、そのミクロコズモを排除しようとします。
逆に、そのミクロコズモがマクロコズモ自身にとって有用な動きを見せれば、
マクロコズモは、ミクロコズモの動きに寄り添うことになります。私たちミクロコズモは、あくまでも独立した存在です。
しかしながら、同時にマクロコズモの一部であることを認めなければなりません。
私たちの命はマクロコズモの命と同じ重さを持っていますが、
(このことは、一種の概念でもあり、長くなるので割愛します)。
私たちは、意志を持つ存在ですから、
その行動にある程度の自由を持っています。
ただ、マクロコズモの中でしか生きられない現実を変えることはできません。
これらのことからマクロコズモのある程度の影響を受けるのは当然のことなのですが、
前述したようにミクロコズモの意識や行動がマクロコズモの望むものと添うものであれば、
マクロコズモ自身をミクロコズモが動かすことが可能です。
マクロコズモ自身もより良い存在になることを目的としており…
2016年7月20日
人生は一度きりだから ころんでも 立ち上がり 前向きに生きていく〜2〜マクロコズモにも自由意志があることを人は忘れがちです。
マクロコズモに自己世界ミクロコズモを投影させる上で、
マクロコズモが一体何を望んでいるのかを知っていることは、
あなたの人生をより生きやすいものにする上で、
とても有用であることは、
自ずと分かることだと思います。
マクロコズモが望むのも一体それはなんなのか。
それは、調和。
すべてのバランスが取れているからこそ、
この世界は成り立っているのです。
このマクロコズモにさらなるいい影響を与えるミクロコズモの訴えは、
すぐに叶えられます。
逆に異なるものであれば、
刹那的には善的な行動に見えることでも、
叶うことは決してありません。
「どうして、自分が、、
何を悪いことをしたでもないのに、、、」
人は、様々な疑問をそこに持つものですが、
そこに存在するのは、正しいも悪いでもなく、
平衡感覚を保ったままのマクロコズモが存続するのみになります。続くのです^-^
2016年7月19日
人生は一度きりだから ころんでも 立ち上がり 前向きに生きていく〜1〜たとえどんなことが起こったとしても、
自分の選択した結果が間違っていたと思えたとしても、
私たちの人生は、常に前に進んでいることに変わりはありません。
私たちが生きているのは、この一瞬であって、
未来でも過去でもないのです。
過去に選んだ結果によって生まれるパラレルワールドは、
あなた自身の中にしか存在しないのです。
あなたの脳の中、体の中は常に自由であり、
どんなことをするのも自由。
そこは、あなたの王国。
ただ、その世界をマクロコズモに投影することは、
あまりにも理不尽なことなのです。
マクロコズモにも自由意志があることを人は忘れがちです。
マクロコズモに自己世界ミクロコズモを投影させる上で、
2016年7月18日
自分には能力がないといって諦めるのではなく、懸命に努力すれば必ず道は開けてくる私は、聖人でも何でもなく、おそらく平均値よりもかなり偏った思考しか持ち合わせていません。
ソクラテス先生が仰ったとされる「無知の知」。
この言葉を知ってからもう30年以上経つでしょうか。
私は、この言葉で私の中のある一面を救われました。
知らないということを知るということが、
全ての始まりになるのだということを先生は、
私に教えてくださいました。
私は、無力な人間です。
無力だからこそ努力することができました。
無力だからこそ、
誰かに教えを頂くことができました。
無力だからこそ、
文献や様々な媒体から知識を会得したいという欲求が生まれました。
人は、生まれながらにしてその能力を開花させているものではありません。
その身体能力や、適性があったとしても所詮私たちが生まれ出でた時の大きさなんて、
たかだか3㎏前後。
きっとこのつたない文章を読んでくれているあなたは、その10倍以上の質量を持っているのではないでしょうか。
持って生まれた適性は、伸ばしやすいでしょうがそれが果たして何歳まで伸び続けるのかは、
神のみぞ知るところです。
そして、私たちができない、そんな能力なんてないと思っていることも、
何かしらの蓄積と共に音を立てて目の前のハードルは開かれることも往々にして存在することです。
それがいつなのかは、誰にもわからないこと。
ただ、私個人として思えるのは、
その人自身が何かに努力しその命を燃やしている姿は、
それがあなたにとって辛いことに感じられるのかもしれないけれど、
とても輝かしく眩しいものに私は感じます。
自分を変容させるということには必ずしも何らかの違和感が伴うものです。
それを自分の中の一部分として取り込みながら成長していくこと。
それが努力という言葉になるのかもしれません。
努力というと、常に苦しさと隣り合わせのような感覚で、私はこの言葉を好きではありませんが、
それは、常に変容していくために続いていく永遠の階段を表す言葉なのかもしれません。
一段一段上っていけば、新しい世界がそこに必ず存在します。
そして、忘れがちなのは、
この階段には終わりがないということです。
あなたは生き続ける限り、この階段を登ることから逃れられない。
立ち止まることは許されていない。
なぜなら、そのことは喜びそのものなのですから。
2016年7月17日
あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない〜後編〜私たちの経験に無駄なものは一つとしてありません。
その経験があってこそ、今のあなたの存在があり、
過去の自分を振り返ることができます。
それは、あくまでも過去の自分がその経験をしてきたからこそのものなのです。
過去を否定することは、現在を否定することにもつながります。
もちろん省みることやそのことから学ぶことは多いとお思います。
ただ、そこにとどまっていては、何も生まれません。
人は、過去に立ち戻り生きることは決してできない存在です。
そして常に時間は動いているのです。
自分が点で存在することができないのに、
そこに留まろうとすれば、
何かしらの歪みが生じるのは当然のことです。私たちは、自分の人生に絶望することとはあったとしても、
この世に産み落とされた以上、
人生が私たちに絶望すること決してはありません。
私たちを取り巻く世界は、
私たちを欲するがゆえに私たちをこの世界に産み落としたのです。
私たちは、常に意味があり、
さらには、私たちの存在そのものがその意味であるという
とても贅沢な生物としてこの世に迎え入れられました。
死ぬほど好きなことをして、
飽きるほど人生を楽しんでください。
それは、いかに感受性を豊かに生きていくのか、
心の幅を大きく持つことにつながるのかもしれません。
私たちのミクロコズモは、
常に肥大化し、
ゆくゆくは、マクロコズムとの一体化を果たすために生まれ出ずるものです。
私が手放したとしても、
私の命を握っているのは、マクロコズムという名の母の手であり、
神の一撃を与えた父の手でもあります。
2016年7月16日
あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない〜前編〜
「島添先生って、強い人なんですね」
「いつも前向きで羨ましいです」この手の言葉を何百回、何千回聞いただろうか。
私は、相当数の人たちから、強靭な人間だと思われているようです。
しかしながら、私の歩んできた人生を知る家族や親しい友人たちは、
上記の言葉は、決して口にしない言葉です。私があなたに仕事上お会いする時は、
あくまでも私は、あなたの人生を客観視し、
マクロコズムの視点からあなた自身の動きに判断を下している者。
私的な私は、また別の存在なのです。私の人生は、絶望の連続であり、またそれば言わずもがな、復活の連続でした。
この経験があるこそ、あなたにより具体的な言葉をかけられるのだと私は思っています。
結局のところ、絶望とは、復活するためのチャンスでもあり、さらには、
リボーンするためのきっかけであるのではないでしょうか。
人は、何の欲求もなければ成長することもありえません。
私たちは、常に何かに不足し何かに対して手を伸ばしている状態。
経験という名の足組ができれば、
あなたはその何かに捕まることができ、
そしてその高みに臨むことができるのです。後編に続く
2016年7月15日
人生とは失敗の積み重ねである〜6〜
自分で自分を落とし込むことも崇めることすら、いくらでも自由なこと。
あなたが、どう生きていくのかは、あなた自身が決めていくことであり
どんな道も目の前には敷かれていません。最後に私が大好きな言葉を添えさせていただきます。
「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」また、二葉亭四迷先生の遺言も
(余命半年?と占い師から言われ、その後すぐに自殺)。
「お前の占いなんて、ちっとも当たりゃしねえ」
私たちの人生は、私たちが決めていくもの、作り上げていくもの。
そのことが、このマクロコズム自体広がる所以です。
私たちの成長がこのマクロコズムの端を見極めることができる
知識と見解によるものですから。私たちに失敗という名の成功を与えてくれた、
内なる創造主に心から感謝します。
2016年7月14日
人生とは失敗の積み重ねである〜5〜
そして、私は、自分が失敗だと思っていることこそ
あなたの個性につながるとも思っています。
失敗は、自分で自分を結論づけるものです。
周囲から与えられる判断で、私たちは振り回されたり、
より高みを目指すことを指示されます。
でも、その次の一歩を決断するのは
あなた自身でしかありえないのです。
自分に選択肢があることは、
自由を手中にしているということですが、
その軸がないがゆえに
常に不安をはらんでいます。
このことは、自分の人生意義やこれからどう行動すればいいのかを
他人に任せようとする心を生み出します。
どう生きたとしても、
あなたがそこに存在する以上、
あなたは成功している存在であり、
光り輝く美しい存在なのです。
2016年7月14日
人生とは失敗の積み重ねである〜4″〜
現在、バスの中で移動中につき、更新はまた後ほど。
もしかしたら、夜になるかもしれないですわー。
2016年7月13日
人生とは失敗の積み重ねである〜4〜
ただ、人ではなく人間として、
人と人との間、
そこに幸福が存在するのだと私は考えます。
人が一人では生きていけないのは、
存在理由からのみ発生する事実ではなく、
対人という関係を持たなくてはならないという現実がそこにあると思うからです。
だからこそ人は人間関係で思い悩み、
また、逆にその関係を自らの中で割り切って生きていくという存在になります。
ただ、
真実は、人は一人では生きていけない存在であるということです。
その中で、自分が今生きているという事実、
このこと自体が個である私という存在が成功だという理論が成り立つと思っています。
そして、失敗とは一体なんなのか、
過去の偉人たちは、いつも素晴らしい言葉を残してくれました。
そして、私たちも同じ歩みの上に生きています。
「失敗とは、成功へ近づくために絶対に必要な道のりである。
一つの失敗は、成功へ近づくことと同じなのだ」
私も同意いたします。
とても長くなってしまったので、小刻みにしてお送りしております
2016年7月12日
人生とは失敗の積み重ねである〜3〜
私たちは、与えられた自由という選択肢を持つが為に、
喜怒哀楽という感情を手に入れ、
生老病死という四苦を与えられました。
仏教でいう「生」というものが「苦」と捉えられているところに、
私は真実であることを感じえます。
私たちは、生まれる時
この世に生まれ出でた喜びとともに、
微笑みをたたえていたのでしょうか。
笑いながら生まれてきたのでしょうか。
私たちは、特別な例を除いては、
皆、泣きながら生まれてきました。
そして、この世から喜びをもって迎え入れられたのです。
私たち個人としての存在は、
常に孤独で悲しい存在と言えるのかもしれません。
とても長くなってしまったので、小刻みにしてお送りしております
2016年7月11日
人生とは失敗の積み重ねである〜2〜時として、あなた自身の使命や生まれ出た理由を
もっともな理由で告げてくれる親切な方がいらっしゃいます。
それは、あなたが今まで経験してきたあらゆることを
これから先
あなたの人生を歩む上で、
できるだけ前に進みやすいように後押ししてくれることでしかないのです。
私もそういう存在の一人なのかもしれません。
私は、精度の高い占い師として
極々一部の人間から認知されています。
それは、あなたのこれまでの言動や
生きる上で重要視している指針などをしっかりと捉えることを
第一優先させているから生じる結果だと私は認識しています。
その上でこのマクロコズムという広大な宇宙意識が働く状態の中、
あなたの未来像がどうなっていくのか、
その姿を私は、判断しているのみなのです。とても長くなってしまったので、小刻みにしてお送りします
2016年7月10日
人生とは失敗の積み重ねである〜1〜結局のところ、成功も失敗も自分が自分に与える判断でしかありません。
未来という存在が不確定である以上、
私たちが現状にその判断を下すことさえ危険であるとも言えます。
このことから言えることは、
あなたが今生きているということ
それ自体が成功なのです。
という事実です。私たちは、何らかの理由でこの世界に産み落とされ、
何らかの理由でこの時代に生きています。
その理由を知っている人は、
ゼロなのです。
どんなに力があるとされる人間でも
あなたに与えられた使命を決めることはできません。
なぜなら、あなたは神から選択肢を与えられた
極めて自由な存在であるからです。とても長くなってしまったので、小刻みにしてお送りします
2016年7月9日
熱中症夢中病と呼んでもいいかもしれません。
何かを極めようとするときや、すでにある域まで達している人に共通すること。
それが徹底的にその世界にはまり込むという時間です。
それが一体具体的にどのくらいの時間になるのかは、
測ったこともないし私の知識の範疇を超えますが、
何しろ、他のことは一切目に入らずそのことに打ち込む時間というものが、
何かを成し得る上で必須条件になると思います。ながら運転は、極めて危ないのと同じです。
レーサーが片手にスマホ持ってたなんて話は、ありえないのです。ちんたら走ってたら、プロにはなれない。
プロフェッショナルというのは、ある一定期間どっぷりと漬かりこむのが必要不可欠です。
私も魔術やタロットにおいて、何度かそういう年月を過ごしてきました。
今振り返ってみれば、何てアホな人なんだろうと思いますが、
その時間があってこそ今の私がなり得るのです。
その頃のアホな私に多大な感謝。その物事と恋に落ちちゃう感じに近いのかもしれませんね。
初恋とは、いくつになってもいい思い出です。
その時、人はその人のことを目一杯好きでたまらないのですから。
惚気になるのかもしれませんが、
私は、運が良かったのかなんなのか、通常かなわないと言われる初恋の人と、
お付き合いしてました(あはっ)。
中学生の頃の話になりますが、ませガキだったのですね。
今は、もうとっても昔に感じられもしますが、
あの頃の私と今の私、何にも変わってない気もする。時に夢中になれるものがないという方に遭遇しますが、
そんな時は、自分が初めて好きになった人とのことを思い出してみてください。
その感覚で物事に向き合えば、大概のことはある域まで達することができるものです。
2016年7月8日
心をひらかずに固く閉ざしている人に、人生はひらかない自分の心は表に出さずに、周りからの評価を高めようとしても到底無理なのだと思います。
「努力しているのに、認められない」
そんな気持ちでいらっしゃる方があなた自身であるのなら、
その努力は、誰に向けてのものなのか?
自分に尋ねていただきたい。
自分を認めてもらうための努力は、実らない。
ただ、事に尽くすことだけがあなたの価値を引き出す。
言い切ってしまっていいのか、自分でも「?」がつくところですが、
私は、そう思うのです。
あなたの心は、本当に相手に向けて開かれたものなのでしょうか?
自分の世界だけで人は生きる事はできない。
周囲の環境もすべて自分のものとして捉え、過ごしていくこと。
それだけで私たちの人生は、より素早くすべてが善的な方向に動いていくと思います。
明日からではなく、今日から、
この今からそうありたいですね。
2016年7月7日
三日坊主は、素晴らしい
人間って本当に面白い生き物だと思います。
とても強いと思えば、脆い一面を持っていふる。
高い志を持つと思えば愚かな行いに平気で居られる。
そんな可愛らしい人間は、
何かを続けようと決心することも多いものです。
あなたは今まで幾つの取り決めを自分自身と交わしたでしょうか。
もう、記憶も定かでない頃から日々の行動を律する為に、早寝早起きだのゆっくり噛んで食べるとか、1日に1万歩以上歩くなど、数限りしれない程の事柄を続かせようとしてきました。
多分、その多くを忘れてしまう程。
そして、新たに何かを自分に課すのですね。
いつの時代であっても人は前に進みたい動物のようです。
続かせたい習慣を如何にして成立させるのかいうと。
endを決めるということがとても有効です。
人の身体にも死というendがあるからこそプランを立てられるというものなのです。
これが、100年、200年、500年なんてなったとしたら、保険屋さんも時代も付いてこれません…。とか、訳分からないことを言いつつ。
先ずは3日だけ続けることを決める。
そしてさらに3日としていくことによって、その日にちは気付けば長い期間に及ぶことでしょう。
3日坊主の坊さんを多人数生み出すのですね。
世の中を坊主だらけにしてみましょう。
なんだか、眠くなって、いつもの文調と差がありますが、今日はこの辺で…。
オヤスミナサイ。
私の目標。
毎日1時間昼寝してみる。
してみるってどころが大切ねっ。
2016年7月7日
また、やらかした
iphoneちゃんで更新してたらぶっ飛んだ。
私の時間ーーー。
戻ってきてぇ。
デジタルの恐ろしさ。
恐怖の大魔王が此処にいるのかもしれないわ。
などと言いつつ、昼過ぎには、再アップ致します。
2016年7月6日
ゴミはまたぐな
最近、あまり口にしてない言葉ですが、私の中に深く根ざしているものの一つになります。
目の前にゴミがあったら、拾って捨てる。
短絡的にはそれだけの意味ですし、オンリーゴミの話だけでも十分なことかもしれない。
世の中ずいぶんきれいになることでしょう。
それより以前の話として、ペットの落し物は、自宅に持ち帰りましょうというものがありますが。
だんだん話がズレていくので元に戻します。目の前に何かがあるのを分かっているのに、
それに対してどう遂行すればいいのかも明らかなのに、それを行動に起こさないのは、
罪である。とまで言い切ってもいい島添美奈子です。
分かってたけどやらない。
知ってたけど言わなかった。
、、だと思った。
すればよかったんだけど。
分かってはいるんですが。以上の言葉は、すべてゴミをまたいできたことに派生します。
私たちは、目の前に用意された課題をクリアすることを求められているのに、
そして、きっとあなたは今以上の自分になりたいと思っているのに。
どうして、そのゴミを拾わない?めんどくさい。
私の中の理由としてこの言葉があります。
目の前にやるべきことがあっても、
なんとなく
めんどくさいからやらない。
そうすると、そのめんどくさいものは、私が見て見ぬ振りをしている間に、
…、成長している。
さらにめんどくさい存在になって私の前にはだかるのです。
私やあなたの前に存在する小さなゴミ(気づき)を放置するということは、
この人生において許されないことなのです。
自分が気がついてしまった以上、
他の誰でもない、あなた自身が行動しなければならない。
本当のゴミが落ちていたものを他の誰かが拾ってくれたのなら、
その経験値は、拾った人のもの。
あなたにとってのチャンスだったのに。
2016年7月5日
自分と世界の狭間
私たちの体は、約600兆個(かなり的外れかもしれません、ただとても多いことは事実だと思う)
の細胞で出来上がっています。
その細胞たちは、それぞれ自分の役割を果たしている。
だから私たちは生きながらえているんですよね。
とてもとてもミクロな目で私たちの体を見ていくと、
その表皮と呼ばれる、いわば自分と外気との境目も綺麗にすっぱりと別れてはいないのです。
ことごとく、隙間だらけの表皮。
この隙間には外気や水や触れるものが何らかの形で私たちの体の中に侵入していて、
私たちと混在している。
これは、私という個と思われている存在が、
常にこの包括する世界と溶け合っていることを示しているのだと思います。
人は、一人では生きられない。
それは、私たちすべてがつながっているから。
私とあなたの間に境界線など存在しない。
それは、地上にある国境線に似ているのかもしれません。
国境線なんて本当は存在しないのに。
どうして人はすべてに区別をつけたがるのだろう。
私もあなたも何も変わらないものから生まれ出でた存在なのに。
2016年7月5日
私は、サボっているわけではないが、周りからはこういうことをサボっていると表現するのだろう
ちょっと私にも人間らしい色々があるのですわ。
今、移動中。
後で更新します。
スマホからだと、ちょー面倒臭いわ。
またまた、
後でー。
2016年7月4日
金は人を表す6
人間は、生まれながらにしてその存在を立たせる上で、価値を求める。
そのことは、金銭的なものでも精神的なものであっても変わらないこと。
ただ、現代社会において金銭の豊満さは、限界値に来ているのかもしれません。
世の中、どんなに貧困だと言っても、自分を存在させる上で道を選ばなければ必ず存在する。
その時代になった時、私たちは自分の内なるものに目を向け始めただけのこと。
精神的なものが満たされなければ、自分が満ち足りた存在になれないというのは、
真実でもあり、虚構でもあるのです。
仙人が雲を下に見る山の頂にしか住めないように、
精神性だけを追い求めれば、俗な世界では通用しないことになってしまいます。
私たちは、あくまでも人と人との関係の中で生きる社会的な生き物です。
その中で、世界流通の血液であるお金の存在は、
世界をつなぐ血流と言えると思います。
その血流の中に生きる私たちの生き様そのものが、この世界を動かしているのは、
その地を作り出しているが故のこと。
となると、血液であるお金を稼ぐことのできない人間は、この世の中に必要とされないという感覚に陥るのは当然です。
自分らしく生きるということは、自分の力でお金を得、
そのお金の使い方によって自己の存在意義の判断材料にすることだと信じて疑いません。自分らしく生きるということは、自分らしくお金を稼ぐということにつながるのだと思います。
専業主婦はどうなの? と言われるのなら、お金を稼ぐ人のサポートをする仕事をしている。
もしくは、お金を生み出す命を本当に産んでいるのだと。
2016年7月3日
金は人を表す5
せめて、その個性をつぶさない教育現場であってほしいと私は願います。
このアクエリアンと呼ばれる世代に至っては、
その価値観が揺らぎ始めるのは、当然のことです。
精神の不充足感に気がつき始めた私たちは、
私があまり好きでない言葉である「癒し」などを求めて彷徨う時代になって当たり前のことです。
これらのことは、私たちが今まで気がつかなかったわけではなく、
ことさらこのお金に人生が縛られているように感じられたからこそ出てくる現象なのです。
今になって精神性が重要視されるようになったということではないのです。
人間は、生まれながらにしてその存在を得る上で、
……………………。今日は、日曜なので少なめ(口実)でちゅ。
まだまだまだまだ、続いちゃうのだな。小出しっていうのだな
2016年7月2日
金は人を表す4
多様な価値観を個別に持っていらっしゃったり、
まだ脳が若い頃により広い価値観を得ることができているのならば、
まだその影響は少ないでしょう。
ただ、彼らのほとんどが学習によってしか金銭を得ることを体得していません。
大学生の頃にアルバイトをしたとしても、
それだけで家族を養うことができないことを学ぶようなものであり、
さらには、このアルバイトというものもあくまでも〇〇大学生として活動していることに変わりありません。
そのような価値基準を持ったまま次の世代の教育に携わられるのは、
私は非常に危険だと思っています。
特別、教育論を語るつもりはありませんが、
これらの狭い価値観の中に置かれた私たちが社会という外海に出ると、
まったく違う価値観が広がっており、
その中でどう生きていけばいいのか、見失う人々が増えるもの当然というものです。
過去、まだ企業に余裕、つまりここでもお金が出てくるのですが、
企業自身の懐に余裕がある、懐が深いという時代においては、
まだ彼らを受容し、社内にて教育することができました。
しかしながら、その他のブルーカラーと呼ばれる職種についてや
農業、漁業、伝統工芸、芸術で身を立てる方法論を学生時代に教えてもらった記憶は、
少なくとも私には一つもありません。
大事なのは、身を立てていく術です。
せめて、その道のりくらいは知っていてほしい。
人間は、多様な性質を持ち動物とは一線を画した存在なのですから。
一人一人の個性を伸ばすことができないとしても、
せめて、その個性をつぶさない教育現場であってほしいと私は願います。
……………………。まだまだまだまだ、続いちゃうのだな。小出しっていうのだな
2016年7月1日
金は人を表す3
それによって自分を確立するという図式が成り立つことになります。
男性がまだ若くして仕事を失うまたは自分の意図とは違う仕事に就かねばならなくなった時、
精神状態を病みやすいのはこのコインの影響の大きさの故です。
そして、その結果男性は自己顕示欲を満たすために必要以上に自己を鼓舞することが多くなるものです。
あくまでも一般論というより、島添美奈子論ですが。
ただ、男性にとってお金を稼ぐというのはアイデンティティを保つ上で、
恰好のツールであることには変わりありません。
昨今のニートと呼ばれる方々もこの一連の法則にしっかりと則っています。
彼らは、自分の表現したいことを表出させることや自分を評価されることを極度に恐れます。
それは、先進国において特に日本に多くみられる現象です。
私たちは、幼い頃から義務教育という国是の基、小中高まで進学するのは、
皆さん当たり前のこととしてご存知でしょう。
その時に与えられる評価の軸があまりにも細すぎると思います。
私たちは、極度に記憶力に重きを置いた学習能力によって価値づけされているのが現状です。
未だに公立の教師の方々は、学校以外で金銭を得る機会を持たずして、小中高からさらに大学に進学し、
そのまま学校で仕事に就位ていらっしゃいます。
多様な価値観を個別に持っていたり…まだまだまだ、続いちゃうのだな。小出しっていうのだな
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