2021年2月23日(祝)kumamoto 晴
今日もDカーネギーの著作を聴きながら近場のウォーキングコースを歩いた。祝日ということもあって出没するメンバーにかなりの差異が見られる。
コースに至るまでの道すがらワンちゃんをお散歩していらっしゃる方2組に遭遇し、両方に挨拶しながらワンコにも愛想を振りまいて顔を撫でてあげると、ちょっと喜んでくれたようで、私も嬉しくなる。人は、受け入れられることで自分も喜びを得られる存在なのだなと偉そうに考えながら、やってることは歩いているだけだ。カササギや他の私が名前を知らない鳥たちが沢山集う中を歩く私の存在は、きっと彼らには邪魔なんだろうなと感じる。ごめんね。でも歩かせて。カーネギーの言葉を耳にしながら、人を許容することの重要性を手を替え品を替え具体的に述べていく彼の世界的な名著だが、聴きながらとても気になることが出てきた。これらのことをやっていくこと自体、行動に移す本人の度量が大きくないと、実践するには相当難しいことなんだろうなと。私も私のことを喋る人間だ。人のことを聞くということを仕事にしているが、時々は自分の話を挟むことが多い。自分の経験や弱さを見せることでクライアントに親近感を持ってもらうという都合の良い解釈の仕方もできるが、要は知って欲しいだけなんだろうな。それでも、多分私はクライアントの話を聞く方だと思う。拝聴することに最低20分はかけることが殆どだ。初見の際は、自ずともっと時間がかかる。その方が感じている世界観、人生へのアプローチの仕方、取り巻く環境など私は何も知らないところから、あなたのことを話していかなければならない。だから私は、もっと具体的に聴きたい。
言葉は、凶器だ。
私が扱う刃物は手術用のメスでありたいと思う。
人を刺す剣であってはならないのだ。
時に、最近親しくなった方からロールシュライファーの包丁研ぎが届いた。
前々から欲しかった品である。
よく研がれた刃物は、切る対象の細胞膜や細胞壁へのダメージを少なく刃を入れることができる。
鋭利でなければ、対象物へのダメージはより大きなものとなる。
斬首の際に使われる同田貫がしっかりと手入れされているのは、相手への敬意を表すものだと、私は認識している。
私が発する言葉は、果たして磨かれているのであろうか。
日々気にするところだ。
あなたに余計な傷をつけていないか。
いや、傷がつかないことはないだろう。
私はまだまだ未熟な存在だ。
磨き続け、身を細らせながらも私は鋭利でありたいと思う。