日々是口実2016 6月

~2016 June〜
島添美奈子から大切なあなたへ

 
日々是口実7月

 

 

2016年6月30日

金は人を表す2

お金とは、タロットカードのスートの中で最も効果的なお守りとして貴方の人生に関わってきます。
そして、あなたは、年齢を重ねるごとに
お金がなければ人間として生きていけないことを切実に感じることになるでしょう。
どんなに綺麗事を並べたからといって、
この事実を完全に否定することはできません。
この文明社会において生きる上で必ずお金は必要であり、
避けてできることのできない課題なのです。
大昔の人間たちの大人になった証として一人で狩りに出かけ、獲物を獲ってくる。
というものがありましたが、この獲物を獲るという行為がやがてお金を稼ぐということに変化していきます。
なぜなら、今時その辺に行って狩りをしながら食べていける人間は、ほぼ皆無に近いためです。
それよりも、現代のあらゆるところに浸透しているお金という存在を手に入れる方が
よっぽど効率的であると言えます。
そして、お金→タロットカードのコインは、大地を示します。
これは、お金が貴方の人生の基盤であることを示すものです。
「この基盤がどうなっているか」「自分がどの基盤の上に立ちたいのか」という意識に繋がります。
特に男性は、子供を産む機能を持っていないので、このお金の影響をダイレクトに受けます。
男性にとって、自分の職業やどのような仕事内容なのか。
それによって自分を確立するという図式が成り立つことになります。
男性が…

まだ、続いちゃうのだな。小出しっていうのだな

2016年6月29日

金は人を表す1

私が好きな作家であり、幼い頃から何度もなんども読み返してきたものは、
芥川龍之介先生の作品です。
個人的には、「蜜柑」と「鼻」というとても私の知的好奇心と、
人の性質をこれだけ短い文章で語っているものはないと、
心から尊敬し、この作品を愛してやみません(読んだら、私という人間がわかると思います^-^)。

もう一つ、芥川龍之介先生の作品の中で私が影響を強力に受けた作品があります。
それが、
「侏儒の言葉」
この中の一節を私は、鑑定時において頻繁に引用します。
「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である」
私は、このさじ加減一つが自己を律する秘訣だと考えています。

そして、表題にある「金」は、goldではなく、moneyの意味の方です。
お金の使い方が人生という限られた時間の使い方に比例すると思うのです。
何に重きを置き、どのように位置づけるのか、それはとてもあなた自身と似ているのです。

私は、クライアントから「超現実主義の占い師」という有難い異名を授かっています。
そして、私はこの言葉を使うのです。
「人生とは、99%がお金です」

反感を買いそうな言葉ですが、どうぞご自由に。
私みたいに捻くれ者は、貨幣が存在しない国ではどうなるんだ。
などといいそうですが、
お金じゃなくてもそれは牛であったり、駱駝であったりするのです。

話を元に戻します。
私たちが自分らしい人生を歩みたいと思うのであれば、
自分で稼ぐことが必要です。
自分で稼いだお金は、あなたに自由を与えるからです。
幼い頃や親の庇護のもとで暮らすのが当然の状況であるのならば…

続いちゃうのだな

2016年6月28日

生きられる時間は限られている。だから、他人の人生を生きることで、君の人生を空費してはならない。

私たちの人生は、常に自分自身のものでなくてはならないと私も考えます。
他人の人生に振り回されていると思いながら生きながらえるのは、
それほど楽しいとは私には思えません。
誰しもそれが本意ではないと思いmす。

私たちの時間は、限られています。
もしあなたがまだ若いとしても、年老いていたとしても、
明日死ぬかもしれないことに誰も差はありません。
今のこの時間を自分の好きなように使えなければ、
それはあなたの人生とは言えない。
「そうしなければ、私は居られないし」

私は一時期というにはあまりにも長い期間、
この人のために生きていこうと毎日を過ごした時期があります。
その結果、私は私でなくなり、言葉を発することもできなくなりました。
そして、その人のためにと思っていた彼と変わってしまった私との関係には、
歪みが生じ、破綻しました。
彼も自由意志によって、当時あまりにも破天荒すぎる私を好きでいてくれたのですが、
二人の関係が近くなればなるほど、
まるで水と油を強引に混ぜることを行うのと同じように、
いつも混ぜ続けていなければならないのです。
それは、私にとっても、彼にとっても疲労するだけであって、
そこに真の喜びは、存在しない。
水と油は、ずっとそのままで良かったのだと思います。
私の得た経験は、かなり特殊なパターンになるので、
よい例にはなりえないかもしれませんが…。

・誰かのための行動、
・これをしてあげてる。
・あなたのことを思って、、

上記の言葉は、その対象となる相手にとっては、負担をかける行動につながることを
心に留めておいてください。

私たちは、私たちのために生きているのです。
他の人に何かしたい
その気持ちは、あくまでも自分の自由意志のものであって、
誰かの人生を支配する、操作するためのものであってはならないと思います。

自分という存在が生まれ落ちた以上、
私たちは、自分らしく生きることが必要なのです。

型にはめられたままの人生を歩むことは、
あなたの心の内なる軸を狂わせ、
その後、身体にその現象は現れます。
それが、病気というものです。

日本語ってよくできていますね。
病体という言葉ではなく、
病気なのです。
全ては、精神の崩れから生まれてくることを先人たちは、知っていたのでしょう。

2016年6月27日

歴史と伝統との狭間

古代の人々の考えていたこと、なしてきた偉業。
今となっては、その技術やその意味すら私たちは、知ることもありません。
なぜなのでしょう。
私たちの記憶がどこかでブッツリ切れているのでしょうか。
ここでその謎は、学者様たちに預けましょう。
閑話休題、

「歴史とは、過去のもの」
「伝統とは、現代のもの」

という考えを私は思っています。
個人的な歴史とは、私たちが行ってきたことやその経験を後世に伝えること。
自分史などは、その最たる例になるのかもしれません。

伝統とは、今に引き継ぐもの。
伝統芸能と呼ばれるものは、時代とともに日進月歩にてその姿を変えつつも
その魂を変えずに存在し続けています。
「伝統とは、常なる革新の元に成り立っている」
世代が変わっても引き継がれる精神。
いわゆる軸となるものは変わらないままに、
その枝ぶりや剪定を受けながら形を変えていく。
今の私たち人間も同じように伝統の最先端にいるはずだけれど…。

過去の歴史にしがみついている人も時々見かけるます。
昔の私は、こんなにすごかった。
私の前世は、こんな人なのよ。
etc…。
そんなの、書物にでも書いておけばいい。

今のあなたと私は話をしたい。
過去の栄光は、今のあなたに十分投影されているはず。
今のあなたに自信がなくなったり、自分を見失ってしまうと、
あなたの過去は、あなた自身を凌駕し始める。

常に伝統の先端にいてほしいい。

そう願う島添美奈子です。

2016年6月26日

人間の性質は生まれた時には、ほとんど差がないけれども、学びによって大きく隔たってくる

生まれた時の赤ちゃんってそんなに代わり映えしない。
うちの娘は、特別足が大きかったから保育器で並んでいる
一見宇宙人が捕獲されているかのようにも見えなくもないけれど、
彼らは一様に大切に保護され、健やかなる成長を望まれています。
その頃のお子様って、時に実の母親が取り違えるほど、容姿にも至っても
そこまで劇的に違うこともありません。
ましてや、彼らができることと言ったら、
まったく同じと言っても過言ではないかもしれないのです。

今、この文章をお読みになられているあなたの年齢が幾つなのかは、
私は見当もつかないけれど、
きっと見た目も周りの人とはまったく違うだろうし(探せば、どこかに居るし、
たまにはそばに居るかもしれないけれど、似てる人が10人居ることはないはず)
だからこそ、周りの人は他の誰かとも間違わずにあなたを見つけ出すことができます。
そしてその能力というか、性質に至っては、
オリジナリティ溢れるものになっているのです。

「私は、そこらへんの人と同じで、まったく普通、個性的じゃないし」
なんて言わないでね。
あなたがあなたであるからこそ、周囲の人たちとの関係も成り立っているし、
あなたが、今の生活環境を保てるのもあなたがあなたであるから。
あなたは、他の人とはまったく違う別のとても個性溢れる存在になっているのです。
このマクロコズモは、同じ働きをもたらす
ミクロコズモを生み出すような非効率なことなんてしません。

私たち人間は古代の偉人パスカルが言うように「考える葦」です。
一人一人にミクロコズモが備わっている以上、
学びによってその宇宙、世界が変わらないはずがない。

マクロコズモが拡大を続けているのと同じように、
私たちミクロコズモは拡大し、それはあなたの自由意志のもと形作られていきます。
言うなれば、自分勝手に生きるしかない生き物なのです。
たとえ、周りの目や支配されていると思い込んでいるにしても、
それを「仕方ない」「こうしなければならない」と考え行動しているのは、
あなた自身でしかできないことなのです。

私たちは、常に自由であって、そしてマクロコズモから生きることを望まれた存在です。
貴重な限りあるあなたの命をどうか存分に輝かせてください。

そのためには、私はどんなことでも厭いません。
大きなことを言うように聞こえるかもしれませんが、
それが、私の自由意志です

何を選び何を選択しないのか、あなたの中にすでに答えはあるはずなのに、
なぜにそれを選ばないの?

 

2016年6月25日

人は何かを差し出すとき、私は自分自身を差し出す

私の精神もこの言葉に追随するものです。
私自身何を持っているでもない。
私は、この世に生まれてきたとき、何も持っていませんでした。
私はその小さなな握りしめた手の中に薔薇を持っていることなんて、無かったのです。
だから、私は生まれながらにして、他の誰かに何かを与えることはできないのだと考えます。
なぜなら、
たとえその時に所有していると思い込んでいるものがあったとしても、
所詮自己の所有するものではなく、

すべてがこのマクロコズムからの借り物であるからです。

真実、私自身が与えられる物といえば、自分自身のみであるだと思います。
では、自分自身とは一体何なのだろう。
幼い頃から私は自分に問いかけていました。
「自分の命なんて、この世には必要のない存在悪である」
つい最近まで私が信じ込んでいたという理由もあり、
(未だ、その考えに縛られそうになることが度々ありますが)
その自分の概念を自分で払拭したいという思いもあって、
ずっと、本当にずっと長い期間考えて生きてきました。
そして、たどり着いた答えは。

私という存在は時間である

私が持って生まれたものは、時間のみです。
私から時間を奪うということは、私そのものを奪うということに他ならない。
私の時間が止まれば、この世界のありとあらゆるものが消え去るのだから。
孤高の小説家と呼ばれた埴谷雄高氏の代表作「死霊(しれい)」の中に、
ことあるごとに出没する「永久時計」。
私だけの解釈になるのだろうけど、
それは、永遠の命であり、人の心臓を表しているのだと考えます。
だとすると、その中に登場する赤いものと青いものが一体何なのかも想像がつきやすくなるというものです。
この永久時計が止まる時は、私の時間が止まるすなわち、この世界も終わるということだと思います。
この世界にミクロコズモという形で存在する自分がいるからこそ、
相対的な関係にあるマクロコズモも存在できるのです。
(話が少しだけ、深淵にもぐりこんでしまいました。
ごめんなさい。私の悪い癖です)。

私たちの人生に終焉が必ず訪れるということは、
とても幸せなことだと思います。
ゴールのないマラソンは、10㎞も走れないかもしれない。
人は何かを目指しているからこそ、今という点の時感を歩み続けることができるのではないでしょうか。
だからこそその限りある時間を差し出すということの尊さが初めて生きてくるのだと思うのです。

私たちすべての生き物に与えられたリミットを何に捧げるのか

その選択肢を与えられたミクロコズモである私たちは、
その意味するところをもっと考えなくてはならないと自分に課しています。
人が所有している何かを差し出すとしても、
所有していると思っているものは所詮神に返すべきものであって、
私たちのものではないのです。
いつだって、自分の時間以外のものは、すべて借り物。
私たちは「人という名の乗り物に乗った時間」という概念で説明づけられるのだと思います。
私は、あなたに自分自身を差し出します。
もちろん、喜んで。

 

2016年6月24日

運命が塞がっていても、心まで塞いではならない

時に私たちの目の前が真っ暗に感じられる時があります。

私もそうでした。
そんな時が幾度となく訪れたか、
もう数えることに飽きてしまうほど。
思い出せば、それらのことは全てが一様に当時思っていたよりも、
もっと辛く暗い。

我ながら、今ここに生きながらえていることが不思議なくらいです。
嘘のような運命のいたずらは、私をお手玉のように弄び、
蹴鞠のようにどこに飛んでいくかも分から無くさせたものでした。

だからでしょうか。
私は、自分で自分を照らさなければ、自分自身が暗闇の中で自分を見失いそうになっていました。

私の娘が今10歳。
彼女の年頃には、私はすでに自分を輝かせるための術を身につけていたのだなと、感慨深いものがあります。

人は生まれながらにして星

私が生まれ落ち、この世界が閉ざされたblack holeのように全ての光を吸い込むものだとしても、
その存在自体が星であることには変わりないはず。

そう思い立ち、私は黒い穴に落ちた自分自身をあらゆる方法で磨き上げました。
真っ暗であるのは、全ての光を吸い込むがため。
本当にそうなのであれば、その内包したものは光り輝いているはず。
当時の私がそこまで考えてはいなかったにしろ、

私は、自分自身が光ることでしか、自分の存在を知らしめることができなかったことは確かです。
未だに当時の幼い頃の記憶があります。
「バカになればいいんだ」
拙い子供の考えだったのかもしれません。
ただ、今のこの経年を重ねた私にもその決断は間違っていなかった。
むしろ、それ以上の答えは無いと言っても過言ではありません。

その決断を下し、実行し始め、私の人生はWhite holeと化したのです。
それは、black holeよりも質量が重くなってしまったが故に当然の結果なのかもしれません。
ただ、神の一撃というそのきっかけが、私のこの決断にあったのは間違いないと確信して疑いません。
自分で自分の心を塞いでしまうことは、
もしそれを自分が望んだとしても、
所詮生きている以上叶わないことでもあります。
だとしたら、

私は、自らの手で目の前のドアを開けることをあなたに望むのです。

2016年6月23日

心の錆5

永遠の命が吹き込まれているかのような、
まるで大樹のような私たちの感受性をそのままに私たちに伝えてくれるその貴重な存在を
私たちは無下にしすぎなのではないかと思います。
色のない世界で育った子供たちが、
あふれんばかりの色彩の世界に突然飛び出してきたとしても、
彼らにはその色の存在は感じられないのです。
その色という価値観自体が彼らの中で無くされてしまったものであるのだから。
私たちは同じような状況にあると言って過言ではありません。
絵画を見るにしても、意味を求める。
クラシック音楽を聴くにしても、どんな背景かを気にする。
骨董に至っては、他の人の価値観の値段に一喜一憂する。
あなた自身がそれをどう捉えるか、それが一番大切なことなのに。
自分自身を信じられなく、
いえ、感じられなくなってしまうこと。
それが心の錆と言えるのかもしれません。

2016年6月22日

心の錆4

あなたが安全な状態に居るために、理性は感覚の解放を嫌います。
なぜなら、見るからにひ弱で立つことすらできない存在なのですから。
私たちは、現代社会において、ようやく自分を取り戻そうとしています。
巷には、自己啓発本や、高次次元の自分との接触により、
その啓発を促そうと熱心に頑張っていらっしゃいます。
もちろんそれらのことで得たれた啓示で会ったり、気づきはとても貴重なものです。
ただ、私たちは忘れてはならないのです。
私たちは、あくまでも此のBODYが存在する上で成り立つ存在なのだということを。
たとえ気づきが大きいものだったとしても、それを理解し説くことができたとしても、
そのことを自分自身が行動できなければ、それは自分の身になることではありません。
私たちの感受性にその経験を与えてくれるものは、多様に存在しますが、
できればそれは純粋でより価値高きものであるに越したことはないはずです。
ですから、私は古より伝わるずっと価値が高いと認識されていたものに触れることをあなたに提唱し続けます。
永遠の命が、、、、、

2016年6月21日

心の錆3

これらのものは、あなたが元々持っていた自分がどう生きたいのかという意識を見えなくするベールのようにあなた自身の前に立ちふさがることになるでしょう。
それは、多かれ少なかれ誰の身にも起こることです。
私たちは生まれながらにして、この知性の発達を促されることには、十分恵まれた環境を提供されてきました。
しかしながら
「自分の感情表現や感受性を磨く」
「自分のことを自分の言葉で話す」
ということになると、
全くもって成長していないに等しいと言えます。
自分自身の中には、育ちきった理性という大人、
それに反して言葉すらも覚えることのできなかった生長していない感受性というものが
拮抗しつつ存在しているのです。
そしてその感受性は面白いことに、BODYという水に恵まれた環境の中で、
まるで鉄の棒のように腐食します。
理性は、その腐食を早める触媒のような役割をしてくれるのです。
あなたが安全な状態に居るために、理性は感覚の解放を嫌います。
なぜなら、、、、

2016年6月20日

心の錆2

(昨日学習した、先に保存した媒体からコピーして使用するということを本日実行していたら、
なんとも長々とした文章になってきたので、分割することにしました。
全ては私の内なる神のお導きにより、、島添美奈子ソロール10−5)

心の錆とは怖いもので、
生まれたての子供の感受性は豊かであるのにもかかわらず、
私たちのほとんどは、宇宙意識と親の価値観によっての支配を受けて育血ます。
これは、悪いことでもなくごく当たり前のことです。
他の動物と違い、私たちは生まれながらにしてすぐ立つことも獲物を得ることもできません。
そして、人との関わりを持つということを学ぶ必要性があるということが言えます。
ただ、この支配から抜け出すことも必要なことです。
自分自身の価値観と目的意識によって、私たちは、自立しなければ、本来の自分独自の幸せを手に入れることができないのですから。
ただ、この自由への脱却において、私たちの暮らすことの世界では、ありとあらゆる方向から引力のように引き寄せられる力があります。
それは、知性と経験、周囲の価値観です。
これらのものは、あなたが元々持っていた自分がどう生きたいのかという意識を見えなくするベールのようにあなた自身の前に立ちふさがることになるでしょう。
それは、、、

2016年6月19日

心の錆

無神経というのを通り越えるくらいの勢いで人の心をいたぶる人たちがいます。
公の場所でも家と同じような厚かましさで過ごせる人々もいます。
責任を果たすこともなく権利のみを当然の如く主張できる人もいます。
私が今から書こうとしているのは、人の常識というものは、それこそ人それぞれなので、没個性を謳うことではありません。
ただ、上記のような人たちに一定の決まりごとがあるように思えてならないのです。
それが表題の
「心の錆」
人の心も肉体や、人工的な機械と同じで使わなければ錆びてしまう。
日常的に動かさなければ、その部分は腐食し錆に覆われ元々の輝きを失うどころか
目を向けたくなくなる要素となり、その錆は進行しやがて錆という化学反応の行き着く先は、
その本質を全て蝕み、無くしてしまう。
私たちの心、と一括りにしてもいろんな分野が存在します。
自己に向けられる愛であるところと周囲の人々や物事に対しての愛、
(この愛という言葉は便利で、どんな表現でも姿を変えあなたの心に響くので使っているので、
あなたが受け取るように解釈されて構いません)。
私は常に人々に自分勝手であれと説きます。
ただ、それは人様の自分勝手領域を侵すものであってはならない。
増してや、人の心の本質を脅かすようなものであるのなら、即戒めるべきものです。
ただ、、
この心の錆というものは怖いもので、
生まれたての子供が感受性豊かであるのにもかかわらず

ここで、私のネットワーク切断はブチ切れてしまって、
とてもいいことを書いてたのに、、、、、
消えてしまった。。。。。。。。。。。
思い出す限りまた明日書くわ

2016年6月18日

人生の宿題

この言葉には、広義なものと狭義なもの2つに分かれます。
狭義なものとして、
私は、今日正にこのblogを更新し続ける上で何が今までの自分に欠けていたのか、
もしくは異なる選択肢を選んでいたのかということを思い知らされました。
私は、この「日々是口実」という意味不明なタイトルのblogを毎日更新しようと決めました。
以前もそうでした。
その前もそうでした。
その前の前に至っても、続けようと思ってきました。
でも、ご存知のように続きはしなかった。
私の言葉の一つに「人は一度に一つのことしかできない」というものがあります。
私は、私の行動の選択肢の中でこのblogの更新をいつも何かの後回しにしてきたのですね。
そして、常に人の一定の時間法則の元、私の1日に定められたエネルギーを使い果たして、
眠りについてしまっていたのです。
なぜ、今日までこのblogが続いているのか。
それは、朝からどの媒体にも関わることなく、
そう、あなたからのメールやコメントなどにも目を通さずに、
まず最初にこのblogの更新をするということをfixしたからです。
1日の中での私の宿題である、「blogを更新する」といった行動を先に済ませてしまうことで、
他のことにしっかりと向き合うこともできます。
そして、日々続けていく中で、システム的なテクニックやもっとこうしたいという欲求も叶えられるようになりました。
広義な意味での人生の宿題とは、私たちがこの現世においてこのBODYが果てるまでにどれだけのmissionをクリアできるのか。ということになります。
私たちのsoulは永遠であり、常に上昇しているのです。
あなたは、その人生の宿題というべき課題に真正面から向き合っているでしょうか。
逃げていても決して逃れることはできません。
何をしながらも常にあなたの足かせのように、その事柄は常に重しとなってあなたの行動や運命速度を鈍らせるのみなのです。

2016年6月17日

私たちの運命と宿命 

今回は、表題に対しての私の見解を書き記しておきたいと思います。
よく私に聞かれる言葉に「自分の運命がどうなってるのか知りたい」というものがあります。
私が占いに携わってきた経験から、この言葉が発せられるようになるのは、
その人に大いなる自由が与えられた時に生じるもののようです。
本来ならば、生まれながらにして、毎日が自由であるはずなのですが、
この私たちを取り囲む世界や親、教育という名の束縛から自分が意識的に離れなければならなくなった時に、
喜びではなく、人は不安を抱えるもののようですね。
「自分の運命」それは、あなたしか作り得ないものであるのに
自分が迷うということをもう少し違う観点から考えてみると、それは容易に理解できるものだと思います。
迷うということは、すなわち選択する自由を与えられているのです。
どちらの道が正しいか、その質問自体が本来ならば愚問です。
正しいのは、あなたが選んだ道なのですから。
それは、いつでもいつの自分でも同じことなのです。
ただ、そこに自分が何を欲しているのか、何を優先したいのかという考えが、逆にあなたを縛り始めます。
とてもシンプルな選択にあるにも関わらず、様々な憶測と恐れから迷いが生じます。
でも、それが人生の楽しいところであり、
神が私たちに与えてくれた運命というものなのだと私は考えています。
過去、特に遠い過去になればなるほど、その時の光景は美しいものだけを選択し思い出せるものです。
当時の自分より現在の自分が高次の存在になっている証拠になるのではないかと思います。
運命とは、運ぶ命。
私たちに宿った命をどこに運ぶのか、その選択肢を与えられたのが人間です。
そして自分の中にある善良な心に尋ねてください。
内なる神は、あなたに直ぐに一番適した最も事実に即した答えを返してくれます。
そして、
宿命とは何かというならば。
私たちの宿命。
それは、
「私たちは、必ず死ぬ」
ということです。
この記憶されているBODYに限界があること、
それが宿命です。
仏教での生老病死という四大苦がありますが、
いずれも私たちの人生において逃れることができないもの。
私は、この四苦を当然のことと受け止めることで、
人生がよりいっそう輝くものとして信じて疑いません。

2016年6月16日

人生とは出会いと経験である

私がよく使う言葉、座右の銘の一つになります。
この文章は以前も書いたことがあるかもしれませんが、今ここに書き記したく原稿を現在の私にすり合うように書き換えさせていただきました。
人生という名の旅において、
私かなり前のことになりますが他ではない出会いを得、
また自分のフルイでは選択しないであろう土地に赴くことになりました。
自分の価値観ではなく他人が良しとしていることに携わること。
それは様々な意味で自分の受け皿を広げる上で、とても有用な手段だと思います。
例えば、周りの友人の趣味に合わせて行動してみるなども、比較的簡単にチャレンジできる事ではないでしょうか。
私の場合、野球やサッカーの試合などには全くもって興味はありません(スポーツファンの方どうぞお気持ちを悪くされませんように)。
私のクライアントからの是非にというお誘いを受けて(半ばイヤイヤでしたが)、
福岡ドームで行われる西武ライオンズ対福岡ホークス(ホーム)を観戦させて頂くこととなりました。
当日、九州新幹線では珍しく事故があったりして予定着時刻より2時間遅れるなど、私に行くなってことなの?
という得体の知れない気持ちを抱きつつも、行くと決めたからには行く。
そして私は、そのクライアントと約束したのだから、裏切ることはしない。
と自分に言い聞かせて福岡ドームまでたどり着きました。
試合の内容は、正直言って分からない。本当に分からない(笑えないほど分からない)。
ただ、知らなかったドーム内の快適さ(エアコンが効いている!!)←アホ。
スタジアムの美しさ、試合の演出方法など、一度機に得られる経験値は、計り知れないものがありました。
その後もう一度行こうとは思いませんでしたが、
その空気感を味わいたくなる気持ちはなんとなく理解できました。
この経験なくしては、私はただスポーツ関心無しという存在であったと思います。
他の人間の嗜好に合わせてみる、流されてみると思わぬ発見が必ずあります。
それは、いい意味でもあり悪い意味でも具体性を増すことには変りません。
見ざるして語るより、知って自分が嫌いな理由を説明した方が説得力も増すものですし。
どうせ一度きりの人生。
この世界にある様々な事象を知らぬまま死ぬ人生です。
出会いのチャンスは、多いに越した事は無ありません。
勿論、深い付き合いも大切にしつつ。
最後に柳宗悦さんの言葉を添えさせてください。
「見て知りそ、知りて見なそ」

2016年6月15日

何かを得るためには何かを手放すことが必要になる

私の信念の一つです。
宇宙真理の大いなる一つとなる「質量保存の法則」
このことに私たちの行動も同じように則っています。
私たちは常に何かを対価交換しながら生きている。
対価交換しなければ生きていけないと言った方が正しいでしょう。
仕事の代償としてお金を得ることができ、休息の代償に行動を止める。
ただ、ここに一つだけの特別な存在があります。
決して私たちが手放していると思っていても、そうでないもの。
それが愛です。
愛という存在自体が均衡を保っているので、私たちはそれを無償のものとしてためらいもなく与えることができます。
さあ、自分に問いかけてみてください。
あなたの愛は、何かの見返りを期待したものではありませんか?
「愛ってなんだろう?」
と思われた方は、こんなふうに考えられればいいと思います。
自分一人が道を歩いていると目の前から子供が走ってきて目の前で転ぶ。
膝からは血が出ているけど、子供はまた走り去っていく。
その時、あなたがどのような行動に出られるかは、その方その方の思考の力によって、
様々な事象となることでしょう。
ただ、心の中に「大丈夫?!」という感情が生まれるのではないでしょうか。
その感情は、私たちの魂の深い部分から反射神経のように飛び出てくる感情なので、あなたには統御できないはずです。
私たちの愛は、そんなところに無限の存在として広がっている。
無限に存在するからこそ、与えても減りもしないし増えもしない。
カバラの法則に従って言えば、それは「無限」
無限から「無限光」が生まれ無限光から「光」が生まれる。
私たちは皆、光の子供たち。
常にあなたは光の中で満たされている。
でも、人間とは欲深い存在でもあります。
そんな人間という存在をとても可愛らしいと私は思います。Angkor Vat_sunrise

2016年6月14日

息を吐くから空気が吸えます。
優しい言葉も相手にかけるから優しい言葉が返ってきます。
呼吸も人を思いやる心も変わりはありません

まさに、次回「REAL WICCA in HIROSHIMA」にて行う全てが凝縮されている言葉です。
私たちの世界は言葉logosで成り立っており、それ以上でもそれ以下でもない。
そのことを常に忘れなければ、私たちの世界はもっと清々しい空気に包まれているでしょう。
それを始めるのは、常に私から。
そして、あなたから始めることが大切です。
受容体である自分が変わらなければたとえ世界が変わったとしても、あなたが変わることはないのだから。

2016年6月13日

自分が恐れていることをしなさい。
そうすれば、もう怖くなくなる

怖いのなら、怖くないようにするための一番適した行動になるんじゃないかと思います。
逃げてたら、ずっと逃げるだけ。
疲れるだけで、最後には恐怖に捕まってしまう。
犯罪を犯した逃亡者は、逃げる限り逃げ続けなくてはならない。
ただ、一度捕まってしまえばもう逃げることからは解放される。
あなたは、どちらを選びますか?
逃げ続ける人生。
向き合う人生。

2016年6月12日

人は言葉である

誰の言葉かは定かではありませんが、この言葉こそ私の真髄に流れる思想です。
人とのコミニュケーションにて私たちの存在というものは確立すると言えますが、
それ以前の言葉としてlogosの存在があります。
私たちは、果たして言葉なしに物事を考えること、悩むことすらできない動物なのではないでしょうか。

知恵の実を食べて以来、私たちは個という存在を与えられた
その代償として集合意識を感知できる能力は低くなり、本能的な喜びを欲として感じ取るようになりました。
本来ならば、人としてただ生きながらえ、この地球という生命体を保持する上でのみの事象をクリアしていくことが私たちの生であったにも関わらず、私たちは、自己の意思であるlogosを手に入れたことにより、自分がいったい何であるのかということをも悩むようになったのです。
デカルトの言葉にもあるように「我思うゆえに我あり」。
私たちは、私たちの中に存在する言葉logosによってのみ生かされている存在と言えます。
私たちから発せられる言葉とは、ひいてはあなた自身ということになるのです。

2016年6月11日

私が今まで心に響いた言葉というものをこれから更新してまいります。
本来なら、これが私の本分なのよね。
今までのは、お目汚し。
汚してごめんなさい。
ほいで、ちゃんと更新します。
毎朝の習慣にするわ。
もう逃げないわ。
寝る前に更新しようとするとろくなことにならないし。
あはははははは。

2016年6月10日

昨日の夜の投稿をそのまんま掲載してアップするあたりが、さすがだなと自分で思ってしまう島添美奈子ソロール10−5です。
というわけで、ちゃんとマメに更新しなければと心に誓うのでした。
そんでもって、毎日君を続けるべく日付を埋めます。

2016年6月9日

長々書いていたのが、私と操作ミスで吹っ飛んだわ。
もういいやら。ささささささんだよねっていう。さ
で、自分大事にってことで、寝る!
私、ねゆさるささなら

2016年6月8日

ホンジツ セイテンナリ。
ヨテイドオリ シマゾエミナコ ノ シュジュツ ヲ ケッコウ サレタシ。

というやりとりがGHQと行われたかどうかは、私の感知するところではないが、
変な点滴を注入され、難なく撃沈された私は、
起きれば、すでに自分の部屋の中でほぼ日常と同じようなあられもない姿で眠っておりました。
やった!
ここは、ヌーディス島とか、得体の知れない思考が私を支配する前に、
可愛い看護師さんが登場。
この病院の看護師さんは、やたら可愛いし、そして何しろ熊本にしては珍しく礼節がしっかりとしてらっしゃる。
理事長の米満先生の功績の賜物なのかもしれない。

話は変わるけど、
私の独自ワーク「REAL WICCA」では、他のその手のもののワークにもれず、
呼吸をとても大切にしている。
その理由は受講生様に至っては、もうご周知いただいていることであると思う。
その際に皆さんが感じていることにこんなことがあるはずです。
「吸うのはそこまで難しくないけれど、
吐くのは、なかなか上手にできない」
これは、実に興味深いことなのです。
息を吸うというエネルギーを補填することに関しては、
無意識にしても行うことができるし、
深呼吸にしても吸った後の余りの行動のように息を吐く。
この息を吐くということに大いなる意識を向けて欲しい。
エネルギーを入れることにことさら敏感になっても、
エネルギーをどのように出すのか、
そこに本当はもっと自分の本来の意識を使って欲しい。
詳細は曖昧にしておきますが、
少しでもあなたの糧になれば…。

島添美奈子ソロール10−5

2016年6月7日

NO MORE WAR !
NO MORE 過干渉!!!

私は明日からしか開かないという個室のために、本日のみ、
4人部屋に生息しておりました。
手術入院の理由は、余りにも恥ずかしくて、誰にも言えないけど。
おい! そんなことで入院すんのかよ! って内容だし。
私の人生の一頁として、輝かしいものになることは確実です。
にしても、ここの病室のおばさあん(おばさんとおばあちゃんの間)の個性は、際立つものがありまして、
甚だ遺憾に思う島添美奈子なのです。
病院内の様々なことをお教えいただくのは嬉しいのですが、
わざわざ、私のおカーテンを勝手に開いてまでお話に来られなくて良いから!
そして、この女性ばかり(中に一名ばかり魔女が潜んでいる)の環境は、実に実にぃ、宜しくない。
やはり、男性と女性とはある程度近いところにいないと、
女性は、一部の人が男性化し、男性の場合は女性化するようになっている。
物事に極性が無くなるということは、ありえないのだ。
極性は、必ず存在するという絶対真理の元、
この世の中はバランスを取っている。
だからと言って、私のカーテンを勝手に開けてはならない。
お金を払って自分の時間を買えるのなら、買うわ。
その金額が、日常生活を脅かさないくらいの金額であるなら。
あー、たまらんちん。

2016年6月6日
記念すべき、6年6月6日という素晴らしい日にこのようなことを告知しなければならないことを、
私自身何らかの意味のあることとして捉えております。

島添美奈子は、明日から入院致します。
理由は大変私らしく馬鹿げているので割愛させていただきますが、
明日、入院。
明後日手術の予定です。
何とまあ、ご丁寧なことに入院期間が約2週間ということでして、
しばらく院内精神汚染に勤しみたいと思っております。

なので、私の鑑定業務はその間おやすみとなります。
お急ぎの方は、どーーーーーーにかするので、
とりあえず声だけかけてみてください。
結構、鑑定を要しない事柄も多いものです。

というわけで、島添美奈子ソロール10−5 は、しばらくベッドとお友達になります。
できたら、手術の様相の写真とか動画とか無茶苦茶欲しいのですが、
頼みますが、、わがまままでは申しますまい。

ただ、手術で摘出されたもののことは、
医師に話してあるので、
私の手元に少ないかもしれないけれど、
残る予定。
ここぞとばかり、魔術本を持ち込みます。

ここでも修行と思い、
入院ライフをどうやって楽しむのかを模索してみるわ。
じゃ、また明日。

2016年6月5日
ブログの名前を変えてみた。
変換をかけたら、大変嬉しいものが出てきたので、
これに決定。
口実かぁ。
私は、今までどれだけの口実を使ってきたのだろう。
もう、数え切れないほどだけれど。
これからは、もっと気の利いた口実にしようと、
変な決心をした島添美奈子でした。

2016年6月4日
今日は、ちゃんと仕事をして、そこそこに仕事をして、
それで眠るつもりだったのに、、、、、。
ウェブの設定がうまくいかない。
こんなことに2時間もかけてしまった。
アホじゃん。
それはいいとして(良くない)、
あと1日2日したら、皆様にお伝えしなければならないことがございます。
島添美奈子、この現世においてちょっと珍しい状況。
笑うに笑えない日々が待ってるようです。
小魔女、大丈夫かしら。
そして、先日即決めしたエジプトに引き続き、
12月にはイギリスに飛びます。
そして、エジプトより手前に魔女三人組(3世代)にてグアムに行くことになりました。
これ書いてる時点で、私の来年度からの忙しさが目に見えるようですわ。
そんな私ももう少ししたら、アラフォーという私の嫌いな言葉から逃れられます。
エレガンスなしなやかさを持った女性になりたいと思いつつ、、、まだ到達しない今日この頃って
どうなってんの。。。。。。。。。

20016年6月3日

今日も恙無く生きてきてる。
我が家に玄関先と裏庭に私が勝手に植えたハーブたちが
かなりいい感じで群生し始めており、、
とか書きながら眠ってしまった。
昨晩。
なんと、こんな画像状態のまま眠ってしまっておりました。
そして、、起きたら、、、編集画面がこんなことに、、、。
やだもー
こんな私ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

©島添美奈子ソロール10−5
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