大体私の頭の中は、固い。出来るだけ柔らかくする為に、毎日精進するのみ

たまには、壮大なるテーマでも掲げてみようと思う。

生きとし生ける全ての魂は、同等の価値を持っているのか?
魂に位階、所謂ヒエラルキーの存在の是非を考察してみようと思う。
我々は、いつの間も絶え間無く生き続け、存続しているかのように思っている。
しかしながら、その魂にはこの世の中で成長もすることもあるだろうし、また堕落していくことも事実である。
事実であると書いたがか、もしかするとそれは表向きのことだけであって、その中の本質、魂の真髄にはなんら影響は与えていないのではないか。ただし、それはあまりにも短絡的すぎる考えであることは自明の理である。
何故ならば、私達はこの世において自由に生きる権利を持つことを許されていること、それ自体が私達の成長を望まれているということに他ならない。
引いては、我々は魂の向上を自らの自由意志に基づいて、いかなる方向性を持つとしても、それは発展させていく使命と言う名の磁気をを帯びた資質も持ち合わせているということになるのではなかろうか。
常に向上していくことを望むことなど、何者にも無理なことである。ただ、それは、我々ホモ・サピエンスという種族に限ったことなのかもしれない。
ある意味、他の生物と異なる自我意識を持ち、社会的生物として生きながらえるということは、我々にある種の期待を持たれているように思われて仕方がない。
だからこそ、創造主は我々に選択肢をあたえたのではないか。
そうでなければ、私たちは常に操り人形のように、自分の意思とは関係なく生きていくことになる。
魂にヒエラルキーは存在しない。
ただ、その上昇があるのみなのではないか。
たとえ、それが現在の尺度で測られる善行でないにしても、その本人の魂にとっては、なんかしらの経験となり、次の世代ではそれが所謂正当なカルマとして受け継がれるのではなかろうか。
良しとし生けるものとしてのカルマも判断が難しいものもあるにしても、それらは全て次の世代のカルマとして引き継がれる。
それは、ミクロコズモとして引き継がれるのではなく、私の持論では一度生命の大海というマクロコズモに投影され、その中で希釈された要素として次世代のミクロコズモの中に反映される。
人々は、同じ要素を持ちつつもその余りある情報の中から、自分に適したものや、興味がある分野に注目着手することで、その人格自体が個性化していると思われる。
愛着(アタッチメント)を受けながらにして成長した魂は、そのカルマの消化や浄化、また明確化を自意識の範疇ではなく、ただ、その下意識の目論見を自然と理論的に考察していくことが出来る素質を持つことができるのであろうと思われる。
逆に、アタッチメントを受け取りづらい環境に置かれると下意識に至るまでの経路が阻まれ、上意識の充足感を重んじることになる。
そうなると、元々魂に義務付けられている、人としてのカルマの解消が疎かになり、どこかしら自己の中に不完全感、社会との一体感、連帯意識、ひいてはこの世界全体宇宙意識との連動性が希薄になる傾向があると思われる。
様々事例を出してもいいのだが、また、別の機会に提示するとして、此処では割愛する。
アタッチメントを感じることが薄かった存在は、自己の意識を持ってその希求に従うことで、より深い下意識との接触を図るきっかけを得ることになる。
それは、それでとても素晴らしい魂への影響力を与えるものだと考える。
つまりは、魂のヒエラルキーというのは、自己の上昇を自分自身で妨げることが無ければ、常にその向上していく道がいつでも開かれている。

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